2011年11月12日土曜日

ワールド イズ

駅へ向かう途中
七五三のお詣り帰りか
ふた組の家族とすれ違った。




おじいちゃんおばあちゃんも一緒に
家族中がきれいな装いをしている。




お母さんの白っぽいストッキングの足と
ヒールの靴


おじいちゃんおばあちゃんの歩幅で
家族はゆっくり進んでいく




目の前の景色と
自分の過去がリンクして


ブラウスの大きな襟や
レースが嫌だったこと


わけもわからないまま
退屈で


だいじにされていることにも
無造作でいられたことを
思い出した。






今は
おじいちゃんはいないし
おばあちゃんは歩けない

あの時
おじいちゃんやおばあちゃんは
この家族の続きには
もう自分がいないだろうと
感じる瞬間があったのだろうか。


お父さんとお母さんは
何をみていたんだろう。


ひとつひとつのことが
いつでも奇跡で


それでも
なかにいる時はそうと気づかず
当たり前のように享受して
新聞たたむようにこともない

めんどくさくさえ感じてる

朝昼晩


消えていくことよりも
今目の前に浮き上がる世界に
視点を
合わせていられる
人の幸福が

どういったわけで

わたしたちはどういったわけで。




 
 



この気分のつづきの映画

『永遠のハバナ』
『歩いても、歩いても』


 
 
だいたいどうしてこんなふうに
始まったのか続いていくのかもわからない。

神様のあくびの中にいるような気分だ。
 
手綱になるような意味がほしくなることもあるけれど
探している間に神様の口は閉じてしまう。
 
意味なんてないというのが
今のわたしのこたえ。

もしかして
生まれてくる前に地図を持ってくるのだとしても
なくした地図を探して歩くより
降り立った土の上を心身つかって探検する方が懸命だ。
 
 
それは覚悟するということ。
 
 
 



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