2014年6月16日月曜日



関西から友人がやってきて
ずいぶんと、一緒に歩いた。
馬喰町から、早稲田へ行って
早稲田から高田馬場、電車に乗って原宿で降りて
明治神宮のなかを歩き、代々木に出て
またひとりの友人と合流して
食事のあと、新宿駅まで歩き
新線新宿駅から、馬喰横山まで。
 
 
 
一緒に歩きながら
彼女の気配や、エネルギーがぱっと開いた会話の部分を
いまも抱いたまま、週があけて、
月曜日にいる。
 
 
新幹線は彼女を関西へ運んで
満月過ぎて、この週末には夏至。
 
 
 
 
 
 
半年以上ぶりに、再会しながら
わたしはいま、エネルギーが落ちているなぁと
ありありと確認することになった。

 
もっと、聞きたいのに
もっと、彼女とともにありたいのに
 
じぶんが澄んでいない。
 
それでも、そこに響いてくる彼女の存在や
一緒にときを過ごしてくれている時間の尊さはかわらない。
 
 
 
一緒に
わたしが通っていた大学の構内を歩いて
文学部の語学のクラスや、一般教養の授業をとっていた建物のなかに
ともにそのとき、立っている。ということは、
うれしい、とか、感慨深い、とか
そういうことばに、簡単に翻訳できない体験
 
心にのこる、場面になった。
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
いのちが落ちてるな、と気づいたから
やっぱり、むきあわなくちゃいけないと思った。
 
 


どんなひとにも、

そのひとのいのちが、循環する場や
循環するひと、行為というものが
かならずあるように思っていて
 
あたまはいろんなふうに、帳尻を合わせようとするけれど
 
ひとがほんとうにできることは、
じぶんのいのちに、誠実でいることだけのように思う。
 
 
 
 
どんなに好きな場所でも
どんなに大切な人でも
 
いのちが湧かずに、枯れていくようなら
 
やっぱりそこを、離れなくちゃいけないんだ。
 
 
 
 
じぶんでじぶんを、思い通りにすることすら
できない。
 
わたしはいのちをあずかっていて
そのいのちに従うしか、たぶん死ぬまでできなくて
 
それでもそうしていると結局
それがいちばん、このいのちを生き生きといかして死ぬ
そういうことになるのではないだろうか。
 
 
 
いのちは
わたしではなくて
 
いのちはエネルギーだし
いのちは、地球とか宇宙とか、そういう個を越えた生命で
 
そのなかの一部をわたしはあずかっているから
 
わたしがいのちをどうにかしようとすることは、きっとできなくて
いのちを育てたり、いのちが光るように
運んでいくことが
 
わたしのしごとのように
 
なんとなく、そんな風に
感じている。
 
 
だからどこへ行くかはわからないし
どこかへむかっているなんて方向を宿した考えさえも
幻想なのかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
馬喰町の大きなまっすぐの道や
古いビルの並ぶかんじがすきだ。
 
隅田川の、巨大な気配。
 
生命を、計算することができるだろうか。
 
 

感じることができても。
 



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