2014年6月30日月曜日

 
 
きのう、夜勤へ行く前に
ダイスケさんに写真を撮ってもらった。
写真展が控えていて、ダイスケさんはひとを撮ろうとしているのだそう。
その1枚に、写してもらったのだった。



ものをつくるとき、わたしも色んな人に力をもらっているから
じぶんが素材になれるのはうれしいことだ。

木曜日に、AKB48のこじはるのフォトブックを買ったばかりのわたしとしては
わたしが美しければ、と思わないこともないのだけど
そういうことではないらしい。

人間を、撮りたいのだって。



そこにはきっと、ダイスケさんも写り込むんだろう。

わたしがいて、ダイスケさんがいることが、写り込むんだろう。




ロイテがお店をしめるときに、
わたしも、友人たちのスケッチを記録した
フリーペーパー「小さな山」を作らせてもらった。

ひとは一瞬一瞬、変わっていくから
断片しかとらえられない。気配、かおりのようなものしか、触れない。

それでも、友人の気配をたどって、文章にする
という行為は自分にとって、すごく尊い経験で

わたしはこういうことを、ずっとやっていきたいって思った。


そこにいるそのひとを、見つめること。

見つめるなかで、出会うこと。


そうしてどうしてか、
伝えたい、って思う。

伝えること。






2014年6月29日日曜日

大雨が降る中を
走って帰る。

風が雨粒の波渡らせる中
無防備に手足かいて
思いのほか気持ちよくて
心が明るくなった。

2014年6月28日土曜日




冬の終わる前に歩いた道を
緑繁るなか、再び歩いて

そこを歩いて会いに行ったひとと
対話するような気持ちになった。

自分が今いる場所にあるものを
よく見ようと思った。

何と、離れようとしているのか
どうして、離れるのか
どこへ行こうとしているのか
今そこへ行くと、何が開く感じがするからか。
今のじぶんが、持っているものはなにか。

たいせつなものしかないんだと気づく。






恋人と別れたひとのはなしを聞く。

なんとなく、連絡をとらなくなって
また久しぶりに会って

離れていても思い出しているし
離れていても不安になることはない

会いたくなったら
会おうと言える。

友人とはそういうふうに、
それぞれの舟に乗りながら
波を読んで
それぞれの地図を見て
出会うことも出会わなくなることも自然なのに
 
恋人はちゃんと別れるんだな、と思った。
 
色んな関係があるから、そうじゃないこともあると思うけど。
 
それは、同じ舟に乗ろうとするから?
同じ行き先を目指していたから?

でも同じ流れに、このまま乗っていられないと気づいて
お互いの舟に渡していたロープを離すのだろうか。

それぞれがまた、
それぞれの命の流れに
素直でいられるように。

命は流れていないと、よどんでいってしまう。
じぶんの生命の流れに沿っていないと、弱っていってしまう。
 
それを知っているから、
結んでいたロープを外して
またそれぞれの命が、その命の流れを
たどれるように。
 
それでも、同じ海を旅している。
 
ロープを外したときに
 
ほんとうに、手に入ることも
ほんとうに、失うことも
 
もともと、なかったんだとわかって
 
すこしほっとするのかもしれない。

2014年6月25日水曜日

折りたたみ傘開いて
雷雨


通り過ぎたあとには
涼しい風


よどみ流して夜になる。









うたた寝して起きたあと
夜が明るくて眠れなくなった。


夜明けのキックオフにむけて
起きてるたましいが
たくさんいるのではないだろうかと感じた。


トラック走る音







朝まで、すこし眠ったら
夢をみた。

2014年6月22日日曜日

生きていることは
面白いなと思う。


体調を崩して、
タクシーで家まで帰宅した日の朝、

最寄り駅から家まで歩く途中
レッドブルの空き缶ばかりが袋いっぱいになって

ゴミ捨て場に出されているのを見た。



このゴミを出したひとは
大丈夫なのだろうか?

そう思って眺めていたけど

私こそ、レッドブルやら
チョコラBBを
毎朝のように飲んでいたのだった。


だけど全然、
気に留めていなかった。


じぶんで
じぶんを
ちゃんと見ていなかったのだった。



じぶんが人にのぞむ在り方を
じぶんが実践すること。


それには勇気が必要。


「このくらい、みんな頑張ってるし」
「みんなやってるし」
と思って
じぶんの在り方に
注意深くならない生き方を

もしじぶんがするなら

それは
延長して

他者にもその在り方
その生き方を
のぞむようになる。


ガンジーのことばがふわっと心に浮かぶ。




見たいと思う世界の変化に
あなた自身がなりなさい。


そのときには
勇気が必要。

生きていると何度も
勇気が必要なタイミングがやってくる。


でも
勇気をだした選択は
いつもそのひとにとって
最善であると知っている。




何かを選択する場面がでてきたとき

それを選ぶじぶんが
何によって動かされているか
いつでも
注意深くいるといい。


勇気によって、動かされているか。
恐れによって、動かされているか。
優しさか、狡さか。

じぶんに、力を注いであげる

20

2014年6月19日木曜日


 
 
 

午後から雨の予報を抱えて
朝霧
 
白い帽子を被ったひとが
道の向こうからまっすぐ、歩いてくる。



ばらばらの方角から歩いてきたひとが
駅にむかういっぽん道に重なり
いつの間にか連なり歩く。
 
巡礼者みたいに。
 
 
 
 
 
 
曇天
 
黄色い電車

リュックの底の折り畳み傘






2014年6月18日水曜日

蓋がとじていると
発酵がすすんで
ガスで器の中がみちる。

通気がよいときに
気づかなかった、
器の中身の存在に
気がつくことになる。

空ではなかったと。

2014年6月17日火曜日



通勤前に、すこし道を外れて
稲荷山公園の階段に腰掛けて
ぼんやりとしていた。



祈る、ということを
忘れていたなと思う。


2014年6月16日月曜日



関西から友人がやってきて
ずいぶんと、一緒に歩いた。
馬喰町から、早稲田へ行って
早稲田から高田馬場、電車に乗って原宿で降りて
明治神宮のなかを歩き、代々木に出て
またひとりの友人と合流して
食事のあと、新宿駅まで歩き
新線新宿駅から、馬喰横山まで。
 
 
 
一緒に歩きながら
彼女の気配や、エネルギーがぱっと開いた会話の部分を
いまも抱いたまま、週があけて、
月曜日にいる。
 
 
新幹線は彼女を関西へ運んで
満月過ぎて、この週末には夏至。
 
 
 
 
 
 
半年以上ぶりに、再会しながら
わたしはいま、エネルギーが落ちているなぁと
ありありと確認することになった。

 
もっと、聞きたいのに
もっと、彼女とともにありたいのに
 
じぶんが澄んでいない。
 
それでも、そこに響いてくる彼女の存在や
一緒にときを過ごしてくれている時間の尊さはかわらない。
 
 
 
一緒に
わたしが通っていた大学の構内を歩いて
文学部の語学のクラスや、一般教養の授業をとっていた建物のなかに
ともにそのとき、立っている。ということは、
うれしい、とか、感慨深い、とか
そういうことばに、簡単に翻訳できない体験
 
心にのこる、場面になった。
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
いのちが落ちてるな、と気づいたから
やっぱり、むきあわなくちゃいけないと思った。
 
 


どんなひとにも、

そのひとのいのちが、循環する場や
循環するひと、行為というものが
かならずあるように思っていて
 
あたまはいろんなふうに、帳尻を合わせようとするけれど
 
ひとがほんとうにできることは、
じぶんのいのちに、誠実でいることだけのように思う。
 
 
 
 
どんなに好きな場所でも
どんなに大切な人でも
 
いのちが湧かずに、枯れていくようなら
 
やっぱりそこを、離れなくちゃいけないんだ。
 
 
 
 
じぶんでじぶんを、思い通りにすることすら
できない。
 
わたしはいのちをあずかっていて
そのいのちに従うしか、たぶん死ぬまでできなくて
 
それでもそうしていると結局
それがいちばん、このいのちを生き生きといかして死ぬ
そういうことになるのではないだろうか。
 
 
 
いのちは
わたしではなくて
 
いのちはエネルギーだし
いのちは、地球とか宇宙とか、そういう個を越えた生命で
 
そのなかの一部をわたしはあずかっているから
 
わたしがいのちをどうにかしようとすることは、きっとできなくて
いのちを育てたり、いのちが光るように
運んでいくことが
 
わたしのしごとのように
 
なんとなく、そんな風に
感じている。
 
 
だからどこへ行くかはわからないし
どこかへむかっているなんて方向を宿した考えさえも
幻想なのかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
馬喰町の大きなまっすぐの道や
古いビルの並ぶかんじがすきだ。
 
隅田川の、巨大な気配。
 
生命を、計算することができるだろうか。
 
 

感じることができても。
 



2014年6月13日金曜日





specialという、1号だけ出ている雑誌があって
2006年に発行されているから8年前に手にとっているのだけれど
その雑誌の在り方に心が向いている。


その雑誌をつくっている赤荻さんは
アトリエAという活動をしていて

それからthrough.の瀬戸さんはnormalというTシャツのブランドをもっている。

じぶんの呼吸と関心のもとに
彼らの活動をみて、触れているから
ほとんどのことを知らないということ
それから、それはそれぞれの人物の、一部であってすべてではないという
ことわりをいれながら。






いっとき、私の本棚に
医学書院から出ている「ケアをひらく」シリーズの本が増えていった。



この間、本棚を整理したときに、福祉に関する本は結構減ったように思うけど





わたしは「障害」に興味があるのかもしれないと思う。

じぶんのたどってきた道を見返すと、たしかにそこに関心があるように思う。



どうしてか、ということが

すこし自覚できていて



自分の家族、親戚からはじまって、知人、友人に
身体障害をもつひとも精神障害をもつひとも
鬱病と診断されたひと、登校拒否、ひきこもり、難病患者

ふつうにいて、生きている。




わたし自身も、生きづらさをもっているし
すべてのひとが障害者だと思ってる。


統合失調症という精神障害を持つ祖母は、
わたしにとってはふつうの祖母で
ぜんぜん、こわくないし、すごくやさしくてかわいくて、大好きなひとだ。





社会は幻想だし
システム自体に人間は存在していない


みんな、すごくでこぼこしていて
それぞれの生命を抱えていて


そのひとのかたちにしか、なれない。




ひとつひとつの生命の在り方をよく見つめていったとき
「障害」はなくなっていると思う。

そのひと、そのいのち、そのかたち、その在り方だけがある。

そういう状態が、ある。それだけのことになると思う。






わたしが障害に関心をもつのは、

そこにそのひとが、あるように感じるからかもしれない。


平均の幻想としての「社会」に適合できない、
個という、その生命そのものの、在り方。


障害に
そのひとがあるというか、
そのひと自身の在り方に触れていくための、
きっかけがあるからのように
感じる。



それで、障害というのは、
障害者手帳をもっている人だけのものじゃないと思う。




specialのなかには

ありのままの、生命が、ひとつの雑誌の上で
おなじ地平に立っているかんじがあって

その空気や在り方が

心地よくて、おもしろくて、

新鮮で。
 
 
 
 



みんながじぶんの心でかんじて、あたまで考えて
じぶんのことばで、話すようになればいいし
話さなくてもいいし
眠ってもいいし

 
そういう風に
なるといいなと思うのは

自分がそういう風に、ありたいと思うから。







障害に関心がある、というのも通過点で

さらに深まったところにある本当の関心は


そこにいっこの、生命があるっていうこと。

それそういうことのように、思う。
 
 
 
 

2014年6月10日火曜日




参宮橋から明治神宮の前まできて、ふりかえった風景。


お疲れさまの、マーラータンメン。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ふとした瞬間に
名古屋の景色や、
長良川にかかる橋の上に立つ感覚が
思い出される。
 
ちょうど1年前の風景。
 






今日、母が何も知らずに
「なおみちゃんに見せたいと思った番組があったから、
録画しておいた」と言ってみせてくれた番組のなかに
 
昨年の秋に1週間滞在した場所が映っていた。
 
 
 
 
 

いまここにいるのは
あのときあそこに
あのとき、あそこに

あのときのあの出会いが

あのときのあの時間が






湿度の高い夜。
お風呂上がりの呼吸が深くなる。
 
 
 
 


2014年6月9日月曜日

 
 
 
家に帰ると
丁寧に包まれた、贈り物が届いていて
ひらいてみて
胸がいっぱいになった。

贈ってくれたひとつひとつに
わたしの好きなこと
(花をいけること)(動物のモチーフ)
(コーヒーをのんだり、食べたりすること)が宿っていて

こんなに、じぶんを
しっていてくれてるひとがいる。と思ったら
胸が熱くなって涙がこぼれた。





体調を崩して、延びてしまった約束がある。


いつでも
贈り物とどけてくれた彼女に
会いたい、と思ったら
会いたい、と言ってくれたら
会えるような
心と、からだを
まもれる

そういう生活をしようと思った。



2014年6月5日木曜日

クルーズ





働きにでている地域を
自転車漕いで進んだときに
あぁ、ここはなんて平らなんだろうと思った。


ひたすら平地がつづく。








朝、なおちゃんに
夜ご飯たべようと声かけてみる。

小田急線がふと、
心に浮かんでいたら
なおちゃんから
参宮橋のお店へ行こうと
提案があった。



前菜3皿で満腹になってコーヒー飲み終えたら
参宮橋から新宿まで
手をぷらぷらさせて
歩いていく


ひろい夜に投げるように
ことば放って
しゃべりながら
 
 




球の方向は不安定

手のひらの体温
うつったボールを

ぽーん、
ぽーんと。




空に放たれたまま

落ちてこないボール
 
 
 
 
 
 
 
 


代々木の大きな緑
高速道路の高架


門扉の閉じた明治神宮

 
 
 

ちいさなアップダウン

いくつものなだらかな丘のなごり


飯田橋
神楽坂
早稲田
新宿
代々木



山越えて
森抜けて
歩いていく


 
 

 
 
今までもたくさん歩いてきて、
今も歩いてる。
 
 
 
 

2014年6月3日火曜日






夾竹桃の花が、もうひらいていた。









世界の認識のほとんどを、視覚に頼っている
ということばに触れて


視覚の感度をさげて

聴覚や触覚の意識をあげるということを
 
気がついたときにしている。
 
 
 
 
たとえば、テレビをみているときも

耳で音を聴いている、ということに意識をもっていくと
画面にむけてる注意力がすこしさがって

目の前で流れているドラマが
画面のそとにでていく感じがする。
 
 
実際に意識してみると、体感のちがいを実感できると思うのだけど

ふだん、目でテレビを見ている
という状態が画面に頭を入れている感覚で

耳で聞いている、という意識をひらくと

もうすこし空間的な現象になる。




そうなるとどういう変化があるかというと、

単純に目の疲れが減るのと

頭のかたまっていく感じが薄まるのと、
それにともなって身体がリラックスするのと


画面のなかのドラマが(見る)というところを越えて
もうすこし体験的になるということ。










こどものときは、
今よりも視覚によりすぎていなかったのではないかなと思う。


ちいさなひとたちを見ていると
かけまわるし、さわるし、くっつくし
とにかく全身をつかっているから

風や匂いの思い出が、つよい。

 
今からまた
ああいう風に世界を体験していくことは
可能なのではないだろうか。




耳をすます

肌に触れるものに、心をすます

目をとじる

あたらしい目をひらく


そういったことで。

2014年6月1日日曜日

音を、目で聞かないように

耳から音を聞いている

目でそのひとをわかろうとしないように

そのひととわたしのあいだに起こってるものに
こころすます


そんなことを
意識しながら